2010年 01月 01日
このブログへ訪問いただいております皆様、 あけましておめでとうございます! 今年もよろしくお願いします。 更新が9月より進んでおらず、申し訳ありませんでした。 最近「見ているよ」等言葉をおかけいただくことが多くなってきたのが、 とても嬉しく光栄です。今年は、リズムよく更新できますように、 頑張ってまいりますので、よろしくお願いします。 2010年は、リネンへの期待や要望が今まで以上に高まっています。 今まで以上に、確かな情報と品質を発信できるよう尽力したいと思います。 皆様にとっても、良い年であることをお祈りしております。 <LINO> #
by akaiinc
| 2010-01-01 01:01
| All customer
2009年 09月 25日
Mr.Paul Batselaere(ポール・バツラル氏)は、出会ったその日Hotel Broel(ホテル・ブローエル)で食事に誘ってくれました。 彼は、東洋から来た“変わった日本人”彌一郎の意気込みと気持ちを大いに喜び、応援することを決めました。 そして、自分が知る限りの様々なLinenビジネスに関わる人たちを紹介する約束をして、事実その年クルトレーの全紡績を紹介してくれたのです。 また翌年(1967年)には、フランス北部Lille(リール)を中心とする全紡績を、またその翌々年(1968年)には、 北アイルランドの全紡績を彌一郎に紹介をしてくれます。これらが、彌一郎のLinen人脈の礎となり、AKAI INCの礎となります。 赤井彌一郎とバツラル氏が出会わなければ…、Linenは日本へ違った伝わり方をしていたことでしょう。 彌一郎とこのバツラル氏との数多くのエピソードは、また別の機会に。 <LINO> #
by akaiinc
| 2009-09-25 12:40
| 彌一郎物語
2009年 09月 13日
赤井商店が目論んだとおり直接初めて買い付けたベルギー・クルトレーから輸入したLinen糸は、 日本で当時流通していた原糸と比べてはるかに品質の良いものでした。仕入れは大成功でしたが、まだ需要に対して 十分ではなく、ヨーロッパリネンをさらに継続的に仕入れる必要がありました。そのため昭和41年(1966年)以降、 弥一郎は、その後40年間に渡って続くことになる買い付け出張を始めます。そして、その買い付けの「大きな支え」となった人物と 初訪問の次の年、昭和42年(1967年)にベルギー・クルトレーで出会うことになります。 その年、「Linier de Kortrijk(リニエール・ド・クルトレー)」と商談のため、工場内のオフィスへ訪問した際に 彌一郎は階段ですれ違ったベルギー人男性に声を掛けられます「君は去年も来ていたね?何の目的でクルトレーまで来ているの?」。 その人物の名は、Mr.Paul Batselaere(ポール・バツラル氏)。現地の有力な原料商「PROCOTEX(プロコテックス)」の創業者でした。 1960年代当時、ベルギーのクルトレーにアジア人がリネンの買い付けで来ることなど、現地の人々からすると奇異に写ったことでしょう。 知らず知らず、彌一郎はクルトレーのリネン業界では有名人。おそらく「変わった日本人が今年も来ている」ってところでしょうか。 Hotel Broel(ホテル・ブローエル)に宿泊したことが、幸いだったようです。このホテルは、街の郊外にあり、そのパブは、 「現地リネン業界人(原料商、紡績、織物メーカー等)」の“たまり場”で、情報交換の場でもあり、実際に売買のビジネスを行っていた、 リネン関係者には「サロン」のような役割を果たしていたのです。彌一郎は、知らぬ間に「顔を売ってた」のかもしれません。 このバツラル氏も、「変わった日本人」を見かけた一人だったのかもしれません。 #
by akaiinc
| 2009-09-13 15:09
| 彌一郎物語
2009年 09月 09日
ブリュッセルから、クルトレーまで在来線で移動するものの何度も降車駅を間違えながら、到着し、 クルトレーの街の郊外にあるHotel Broel(ホテル・ブローエル:現地では「ブロー」と発音し 「エル」の発音はほぼ無い・弱いのですが、ブローエルとします)を拠点に、 まだ流暢ではない英語でリストにあるメーカーに一軒一軒訪問を始めました。このホテルに泊まったことが、 弥一郎に思わぬ幸運を招きます…。 そして初めて訪問した紡績メーカー中のうちの1つ「Linier de Kortrijk(リニエール・ド・クルトレー)」と成約します。 これが現在に至る、日本へ本格輸入されてきたヨーロッパリネンの最初のLinen糸といってもよいでしょう。 #
by akaiinc
| 2009-09-09 12:38
| 彌一郎物語
2009年 09月 05日
「ヨーロッパに出向いて直接原料を手当てする」。問題を解決するためには、その方法しかないのは明らかでした。 現在では、インターネット等、手軽な情報ツールがありますが、当時はテレグラム(国際電報)の時代。 昭和40年(1965年)に、ヨーロッパの、しかも「Linen」の生産地の詳細情報を知ることは 不可能に近い状況で、まったくの未知への冒険だったと思われます。そんな中で、手がかりに 彌一郎が、まず訪れたのは「ベルギー大使館」でした。 ベルギー大使館に、会社の意図を伝えたところ、ブリュッセルの領事館でリストアップした資料を 頂ける事になりました。何も情報が無い中、彌一郎はこの唯一の手がかりを元に、訪欧します。 ブリュッセルに到着後、何とか領事館にたどり着き、リストを受け取った弥一郎は、 その中心的な都市に訪れます、街の名前は「Kortrijk」 (注*一部では”コルトレイク”と呼んでいるようですが、最も近い日本語の発音で”クルトレー”ですので以下クルトレーとします)。 昭和41年(1966年)春のことでした。 #
by akaiinc
| 2009-09-05 14:21
| 彌一郎物語
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